【アテアにたどり着くまで】大杉日香理の生成について1~幼少編~

最近キャラ好き疑惑&変人疑惑がささやかれる@大杉日香理です。

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いきなり釈明すると、可愛いものがすきなだけでキャラクター好きなわけではございません。

さて今まで書こうと思って書けないでいたプロフィール。
昨年下半期から別の用途で書く必要に迫られ、インタビューを受けるうちに思い出してた幼少の頃。

思い出してわかりましたが、かなり記憶の彼方に旅立っていたことが判明し、
自分のことながら思い出す度に新鮮な驚きを覚えます。

それらのひとつひとつが大杉日香理という人間を形作ってきた一部ということで、
まだ生成中の身ではありますが、何故アテアにたどり着いたのかをまとめておこうと思った記事です。

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↑若かりし頃の大杉
母の実家が長野県八ヶ岳周辺なので、実家帰省中に撮影したものだそうです。
(撮影場所は実家ではありません)

2歳ごろ天才バカボンが大好きで、バカボンのパパをお父さんだと言っていたらしい。
(実際には全く似てませんがね)

私が覚えている一番古い記憶は、今のところ幼稚園入園前。
何歳かはわかりませんが、自宅で母にひらがなを教わっている記憶です。

その頃から自宅の庭や公園や路上などで、見えない存在達と交流をしていました。
本当に多種多様な存在ですが、当時の私はそれぞれを判別する知識はないので、
感じた存在を感じたままにありのまま対応していたようです。

樹木は樹木。
石は石。
山は山。
光る存在は神様であったり、妖精であったり。
土地は土地という捉え方でしたね。

これも大人になった今ではそれぞれの存在の違いをくみ取り、異なる存在であるというのもわかります。
当時はわからなかったけれど、お互いに交流を持つ親近感は今でも覚えている感覚です。

この頃の交流が、今の私の見えない存在との交流のベースになっています。


幼稚園に入いる頃はほとんど話をしない子供でした。
話そうとすると話したいことが一気に頭を駆け巡るので、第一声が出せず。

その人の言いたいこと、本当に思っていること、こうするとよいだろうなぁ~ということ、
その人に言いたいことがある見えない存在達の言葉など、一気に脳内を駆け巡る感じです。
漫画の吹き出しが頭の中にいっぱい的な。

特に相手の思っていることが感じられてしまうので、更に言葉に困るのですよね。

この頃から第三の目でものを見る練習や、瞑想、西洋占星術などを学んでいました。

子供だったのでおまじない的な位置づけだったのでしょうが、
自分で形霊(かたたま)や呪文を試しては検証し、西洋占星術は近所の友達に説明してましたね。
この頃に検証して使ってきた形霊(かたたま)や呪文をみつかい養成講座 でお伝えしています。

なんでそんなことを知っていたかは今のところ記憶にないのですが、
多分図書館常連の成果や見えない存在との交流から始まったのだろうと思います。

何よりも、
自分に何ができるか知りたい
自分の持っていものを知りたい
人を理解したい
交流している見えない存在のこと深くを知りたい

と思っていた園児でしたので…今思えば、変わっているのかもしれませんね。

家は普通のサラリーマン家庭です。
父方の祖母とは同居で、家族仲も普通に良い家庭で育ちました。
親戚も多いので親戚づきあいもまぁ、ほどほどに得意です。

小学校に入ってからますます自分から話しかけられない度もアップしまして。
周囲が上手に友達を作っていく中、相変わらず友達が少なかったです。

それでも私の話に興味を持ってくれる場ができると、
延々とそれこそ何時間でも話をすることができたんですよね。

この頃ギリシア神話に興味があり、神話や全天星座の解説、
それに連なる西洋占星術の解説などをしてました。
覚えている最長記録は4時間。

よく話に付き合ってくれたものです。

これは中学生になっても健在で、
日曜夜に観た大河ドラマの内容を月曜に詳細に解説するという、
歴史に興味ないのに聞いていてくれた友人ってすごいなと改めて思います。

とはいってもこんなに話ができるのはごく少数で、学校では影をうす~くして気配を消すことを体得。
クラス発表があっても、出席しているのに私が参加していなくても先生も生徒も気が付かないという。

この頃からでしょうか、今まで感じていた存在が薄らいできたのは。
樹木や石、土地など現実に形があるものとの交流は途絶えたことはありませんが、
神様や妖精、その他実態のない存在との交流が消えていきました。

一生懸命に現実生活にマッチングしようとしていたんですよね。
感じることで煩わしいこともいっぱいあり、人の中を見たくなくて閉じていった感覚と共に、
神様や妖精など実態のない存在を感じないようにしてきました。

小学校4年生頃のことなので、そういう世界があって、そういう生き物がいるというのはしっかり記憶に残るわけで、感じなくなったからといって存在を否定するわけではありません。
単に私が感じなくなただけです。

ただ感じなくても見ていてくれている感覚は常にあったので、
現実的に苦しいことがあっても人の世界で生きることを否定することはありませんでした。

現在のアテアでもお伝えしている現実世界あっての見えない世界という感覚は、
子供の頃からの私の当たり前の感覚だったんですね。

そういえば、魂(直霊・なおひ)について初めて体験したのはあの時でした…
書いてて思い出しました。

長くなったので、つづく・・・