主人と別れてから半年たちました。半年たって思うこと

昨日は中学校の三者面談2人分でした。
今年からゆとり教育がなくなったので、夏休み中に面談を持ってきたようです。

この記事は思ったことをつらつらと書きます。
ご興味ある方だけお読みくださいませ。

長文です~。

タイトルにもありますが、主人と会えなくなってから半年がたちました。

あっという間のような気もしますし、随分と昔のような気もします。

この半年で子ども達もかなり成長して、自分たちも思うところはあるだろうに
家のことも進路のこともがんばってくれています。

私といえば、最近は思い出す時間と他のことに打ち込んでいる時間のメリハリがはっきりして、
逆に思い出す度に涙が流れます。

まだまだ話したかったことや過ごしたかった時間があったという私側の希望と、
成長している子ども達と生活という状態で関われない主人の無念に想いが馳せります。

主人が他界する前とした後では、私の中でしょうがないことへの境界線が変わりました。
丁度大通りが時間によってセンターラインを変更するイメージです。

以前ならしょうがないことは本当にしょうがないのだから、
しょうがないで終わっていたことが多かったんですよ。
あきらめるとかではなく、しょうがないことを考えてもね!的感覚かな。

今はしょうがないことに「もしも」をつけたり、愚痴ることは相変わらずないのですが、
しょうがないこともしょうがない状態として感じて、それで悲しいとか想う気持ちを味わう時間ができました。

しっかりと受け入れることもできています。

悲しいと気持ちに蓋をして仕事や子育てに集中しよう!ということは当初からありませんでしたが、
実際にこの半年で悲しいという気持ちに向きあってこられたのは、
子ども達を含め私を支えてくれる皆さんがいてくれるおかげ様です。

本当にありがとうございます!

七十七日過ぎてからの主人との距離が遠くなりました。

知識では知っていたことですが、実感すると寂しい気持ちも湧いてきますね。

遠くなったのは肉体ある人間とは違う世界の住人になったからなので、
それはそれで良きことなのですが、それと寂しいという気持ちとはまったく関係ないので
しっかり悲しんでいます(笑)

強みなのか、素質なのかなんなのかわかりませんが
「わかる」からこそつらい感情やわかりたくないことまでわかってしまうことも多いのです。

わからなければ、主人との距離感も近いと思いこむこともできますが、わかるからねぇ。
離れた距離感を無理矢理近いと思いこむことはできません。
ソンな性分かもしれませんね。

とはいえ、それは実際の距離の話であって、住む世界が変わっても繋がりがなくなるわけではありません。
主人が応援してくれているのがわかるし、生前からサポートしてくれていたことに変わりはないのです。

半年たって思うことはやっぱり他界したときと同じでした。

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生前の主人ならば笑って「私なら大丈夫」というと思うのです。

だから私は大丈夫なんだと、心の底から実感できた半年の月命日でした。

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状況は捉え方でどうにもとれます。
同じ状況でも、時期によっても取り方は変わるでしょう。

人によっても捉え方は変わるし、時代によっても変わる。

だからこそ、今の自分が感じられる捉え方で、
試行錯誤を繰り返しながら1歩でも先に進みたいと思います。

そう思えるのは、本当に本当に支えてくれたみなさんがいてくれたからデス!
これからも応援よろしくお願いいたします。

みなさんに、幸あれ~!!